壽老人

壽老人

壽老人

 

 

壽老堂

※正月1日~10日の間のみ

期間限定で、谷中七福神 壽老人

をご覧いただくことが出来ます。

中国元祐年間の道士で、白髯を蓄え鹿を従えている老人で、福禄寿と並んで長寿の福を授ける南極星の化身であると伝えられている。当寺の寿老人像は、徳川家康公が納めたものといわれ、等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた座像である。

 

むかし谷中付近は、西に富士、東に筑波を眺める静かな丘陵地帯であり、春は桜、あきにはすすきに映える名月と四季を通じて文人墨客の清遊の地であり、早春には、梅花にたわむれる鶯の名所でもあった。

 いつの頃からか、この鶯の初音にさそわれて、行脚の老翁が、この地にとどまるようになり、長安軒と名付ける小さなお堂をたて、壽老人(徳川家康の納めたものという)の尊像を安置して給仕していた。たまたま老山和尚(長安寺開山・寛文九年)が、日暮れにこのあたりを通りかかり、一夜の宿を長安軒にもとめた。その夜、老翁が和尚に語るには、『前々から、ご立派な方に、この小さなお堂ではあるがお譲りしたいと思っていたところ、幸いなことに今夜あなたがここにお泊りになった。どうぞこのお堂をお守りしていただきたい。この堂内に安置してあるのは、七福神の内の南極星壽老尊人で福徳自在の神である。即ち、いのち長くして諸願を果す福、父母に孝行の福、子なき人には子孫繁栄の福、病人には諸病平癒の福、又戦火もなく財録増進の福、農家には五穀成穣の福、商人には商売繁昌の福を授け与える神である。このことをよく衆生に教えさとして、祈念するようにすすめていただきたい。

 そもそも、この里は、不忍の岡に弁才天あり、護国院に大黒天あり、感応寺(現在の天王寺)に毘沙門天あり、当長安軒に壽老人あって、将来は、これに基いて七福神を祀る地となるであろう』と(現在、日暮里青雲寺に恵美壽神、修性院に布袋尊、田端西行庵<東覚寺>に福録壽が祀られている)時に枕辺にひびく鐘の音に驚かされて、和尚が頭をあげてみれば、一睡の夢であって、起きて老翁を尋ねさがしたが、何処へ行ってしまったか、見あたらなかった。やむをえず和尚は、長安軒に止まることになった。

 その後、年去り日は移って明治元年の夏、徳川家恩顧の旧家臣等が東叡山へたてこもり、新政府軍に対して反乱を企てていた。この時、壽老人を祈念していた二・三の人達の夢中にお告げがあって、このあたりは、すべて戦場となり、火災も発生するであろうから、婦人子供老人たちを早く避難させなさいと教えられた。果たして同年五月十六日(旧暦)政府軍、浪士軍の戦端が開かれ、ここ谷中附近一帯は陰惨な戦場と化し、処々灰燼となったけれども、住民は辛くも難をのがれた。戦火鎮静ののち、人々はこの霊夢でのお告げを尊しとして、みな礼拝するようになった。
(明治初年発見した由来による)